港町、坂の上

駄文です。そうでなくても雑文。

公衆トイレにて思う

オフィスビルやレストランなど、外出先でトイレに入るたびに気になるのが、洗った後に手を温風で乾かす装置が、ことごとく使用できなくなっていること。

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こいつの名称がエアータオルなのか、ジェットタオルなのか、ハンドドライヤーなのか謎ではあるが、とにかくここ半年使ったことがない。
たとえコロナの感染が落ち着いたとしても、改めてこいつの電源を入れて使用に供するという判断は難しい気がする。もし専業メーカーがあるなら確実に倒産だろう。

 

メーカーの方も大変だとは思うが、設置している方にしても、場所は取るし撤去するには手間もコストもかかるしで、なかなか厄介な代物になっているのではないだろうか。

そんな中、とある駐車場のトイレで、こいつの新しい使い道を見つけた。

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ペーパータオルの下に設置されたエアータオル/ジェットタオル/ハンドドライヤー。

 

中を覗き込むと、

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いくつもの丸められたペーパータオル。

なるほど、ゴミ箱にぴったりではある。

 

Facebookに思うこと

Facebookに何も投稿しなくなって久しい。
他人の投稿を見に行くことも、週に一度あるかないか。
もはやただのオンライン住所録という感じで、昔の知人や友人と連絡を取る必要が出てきた時に、メールほど堅苦しくなく連絡できる手段、というだけの位置付けだ。

そうなってしまった原因は色々あるが、大きな要因の一つが、リアルで知っている知人の政治的な発言に触れるのが嫌だから、というのがある。
普段はせいぜい、仕事の話や最近行った旅行の話や芸能人の噂話をする程度の間柄なのに、いきなり政治や思想信条の話に踏み込まれてくる感じがしてしまい、その政治的な立場が自分に近い遠いと関係なく、戸惑ってしまうのだ。

元々近しい関係の相手だったら、例えば学生時代に散々政治論議をした友人だったり、職場でしょっちゅう新聞の一面をネタに駄話している同僚だったりすれば、ああアイツならそう言うだろうな、で終わるのだけれど、ただの取引先だったり、数十年ぶりに繋がった古い友人が、時事ネタ政治ネタを投稿しているのを見ると、いわゆる「そっ閉じ」となる。

自分の世代だと、若い頃から「政治と宗教の話は人前でするもんじゃない」と言われてきたが、最近はそういうことは教えられないのだろうか。
いやいや、Facebookで政治発言を繰り返している知人は同世代だったりもっと上だったりするので、最近のことは関係ないだろう。

恐らく、子供ができました、休暇でハワイに行きました、新しいプロジェクトがローンチしました、みたいな近況報告をしていて、みんながそれに「いいね」してくれているうちに、自分の情報発信は常に周囲から認められいると思い込んでしまい、Facebookで繋がっている相手はみんな親友で、自分のことを深く理解してくれているのだ、という錯覚に陥ってしまうのではないだろうか。
それでなければ、年に一度会うか会わないかという仕事相手に向かって、突然政治の話はしないだろう。

まあそんなわけで、この世界にTwitterがあって良かったな、というのが結論。

はじめての今さら聞けないFacebook[第2版]

はじめての今さら聞けないFacebook[第2版]

 

ジャングルでの格闘

完全にジャングルと化した我が家の庭。

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葛の蔓が庭中を這い回り、木蓮や紅葉の気に固く巻きついて引っ張ったくらいではびくともしない。
巻き付かれている方の木々たちもひと夏の間に枝を伸ばし葉を茂らせ、庭は鬱蒼とした緑のトンネル状態。。。

やっと涼しくなってきて、ヤブ蚊もあまりいないかと期待して、重い腰を上げて草刈機のスイッチをON。

2時間の奮闘の結果、とりあえず見られて、歩ける状態まで回復した。

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木の上の方までは手が届かないし、疲れ果てたので高枝切りバサミを使うのは止め、後は冬になったら植木屋に任せることにする。

問題は切った葉や枝の始末。袋に詰めてゴミに出すべきだが、あまりに大量で面倒臭いので、庭の隅に放置。そのうち土に帰るだろう。

 

おまけ

翌日、どうにも脇腹から背中にかけて痒くてたまらず、見てみると一面の発疹。
皮膚科に駆け込むと、毛虫がシャツの間に入り込んだのではないかとのこと。
作業中は全く気がつかなかった。

教訓:水分補給と庭の手入れはこまめに

 ↑小さな庭ならバッテリーより電源ケーブルの方が使いやすい

マーラーなつまみ

先日、「クレイジーソルト塩バタピー」がいかに危険な食べ物か注意を喚起したが、

久しぶりに立ち寄ったあるスーパーで、さらに危険なピーナツを発見してしまった。
その名は、

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「麻辣(マーラー)ピーナッツ」

最初のうちは唐辛子を避け、ピーナツばかりを恐る恐る摘んで食べてみる。

思ったほど辛くない。余裕でいける。

もうちょっと赤くなったピーナツを選んで口に運ぶ。

お、ちょうどいい。単なる塩味に飽きてきたところに、新たなピーナツの地平を開く味だ。

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徐々により強い刺激が欲しくなり、少しずつ赤い物体をパリパリかじり始めてしまう。

そして舌の上がヒリヒリしてくると、それを洗い流したくなってワインをガブガブ、、、

 

気がつくとソファーで寝落ちしていた。

あー恐ろしい。

 ↑ちょっと違うが。 

志村けんのいない世界

もう9月も終わる。今年も残りほぼ3ヶ月。年度で言えば半分が過ぎることになる。

今年はなんだか、何もしない間に時が過ぎていってる感じがする。
もちろん、やる気がないとは言え仕事はしているし、在宅勤務と言いつつ家事もこなして、旅行も行ったりしたけれど、メリハリがないというか、何となく締まりが無い。

とにかく、今年はあらゆることがコロナウイルスに覆い尽くされてしまった。

 

日本人にとって(という大きな主語は好きではないが)、コロナウイルスが一気に身近で大変なことだと認識されたのは、志村けんの死だろう。
亡くなったのが3月29日。
海外の悲惨な状況が連日報道され、日本は大丈夫なのかと不安が膨らんできていたタイミングに、日本人なら誰もが知っている人がコロナウイルスで亡くなったというニュースは、強い衝撃を与えたと思う。

 

志村けんが死んだというニュースを聞いて、自分は強烈な寂しさに襲われ、深い喪失感を感じた。恐らく、多くの人にとってもそうだっただろう。

それは多分、どの世代の人にとっても、志村けんという存在が子供時代の幸せな記憶に結び付いているからだと思う。

自分の世代で言えば、小学生の頃、家族が揃った土曜日の夕飯の食卓で見る『8時だョ!全員集合』。あれは今思えば、もう何というか「幸せ」の一言に尽きる。

もっと下の世代になると『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』だったり、『ドリフ大爆笑』だったり『だいじょうぶだぁ』だったりするのだろうが、子供時代の楽しかった記憶と志村けんというコメディアンが、分かち難く結び付いているのではないだろうか。

 

自分は、人生で一番楽しかった日々は小学校の頃だったと感じている。

もちろん、そうでない人がたくさんいることは知っているが、とは言え、まだ青春の葛藤が始まる前の、責任を負うことのない、長い人生の中で無邪気でいられたほんの短い時期だということは共通しているはずで、その無邪気さが志村けんのギャグやコントのバカバカしさ(もちろん褒め言葉)と重なる気がしている。
だから大人になってからたまに志村けんの番組を見ると、素直に無邪気な自分に戻れたのだし、それが幸せだったのだ。

 

志村けんが突然いなくなった世界というのは、自分自身の少年時代、無邪気だった幸せな日々が理不尽に奪われた世界。どこかでそんな感覚がある。

そしてその喪失感が、半年経った今でも続いている。